東京オリンピック誘致のための一ヶ月あまりの南米諸国行脚の道中、
勇はブラジルのサンパウロ郊外で、 ユダヤ人が経営するユダヤ人専用の老人ホームを見かけたことがありました。 「日系人はこうした施設を持っていない。
パイオニアとしてアメリカで働いてきた日系一世たちはもう随分と年をとっている。 言葉も通じない見ず知らずの土地に移り住んだ彼らは、どれだけ苦労してきたことか。 せめて老後は楽しい生活を送ってもらいたい。」 ユダヤ人専用施設を見た勇は、強くそう思ったのです。
そのことがきっかけとなり勇は二年度、 日系社会福祉団の運営に携わるようになりました。 日系人の医師と看護婦による日系人のための診察を始め、 1969年(昭和44年)には看護病院「敬老ナーシング・ホーム」、 1971年にはその姉妹施設「南敬老ナーシング・ホーム」を開設しました。 1974年(昭和49年)には、老人ホーム「敬老リタイアメント・ホーム」も設立します。 勇の心のなかには、英語も話せず 慣れないアメリカの土地で苦労を重ねた 日系一世、二世たちに恩返しをしたい、 彼らが日本人に囲まれて楽しく暮らせる場を提供したい、 との思いが常にありました。 自分自身が日系人であることを誇りに思い、 全力を尽くして高齢の日系人たちが 気持ちよく余生を送れる環境を整えようと、 勇は晩年まで精力的に、 日系人高齢者のための福祉施設の整備に取り組み続けました。