■わだいさむものがたりP.9

御坊ロータリークラブ和田勇委員会

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握手-イラスト 1951年(昭和26年)、勇は日本水泳連盟に招かれて、
正子とともに日本を訪れました。
祖国・日本の土を踏んだのは
九歳のときにアメリカに帰って以来なので、実に35年ぶりです。
羽田空港に降り立つと、
ロビーには知人や友人が大勢集まって、
ふたりを出迎えてくれました。

なかには全米水泳選手権で「フジヤマのトビウオ」と賞賛された
古橋や橋爪ら選手たちの顔も見えます。
勇も正子も懐かしい人たちとの再会に胸がいっぱいになりました。
ふたりは桜が満開に咲く東京を観光し、
久しぶりの日本を堪能しました。

ある日、日本水泳連盟の田畑政治会長に招かれて、
勇は奥沢にある会長宅を訪ねました。
田畑会長は、世界中の人々が一同に会するスポーツの祭典・オリンピックを、
とても価値あるものととらえている人でした。

「わたしは、東京でオリンピックが開かれる日が、
いつか必ず来るんじゃないかと思っています」
田畑会長がつぶやきました。

「和田さんは、戦争で負けた日本がオリンピックを開くなんて
無理に決まっていると思われるでしょう。
たしかに夢みたいな話です。
でも、東京でオリンピックを開催するのがわたしの夢なんです。
見果てぬ夢に終わるかもしれませんがね」

「そんなことはないですよ。夢が現実になるといいですね」
勇が笑顔を見せると、田畑会長もいっしょに笑いました。

そして七年後、再び日本を訪れた勇に、田畑会長は言いました。
「東京でオリンピックをやりたいんです」
勇は息をのみました。
七年前に夢として語り合ったことが、頭のなかによみがえります。


「昭和39年、1964年ですが、
第18回オリンピック大会をわれわれはぜひとも
東京で開きたいと考えているのです。
夢を実現するために、
ぜひとも和田さんにご協力をお願いしたいのです」
「本気ですか」
勇は驚いて尋ねました。
「もちろん本気です。
外務省や文部省には慎重論もありますが、
岸総理大臣はやる気だし、安井東京都知事も熱心です。
アジア大会の成功で自信もついたし、関係者はみんな燃えてますよ」

アジア大会とは、この年1958年(昭和33年)5月に東京で開催された、
第3回アジア競技大会のことです。
この大会にあわせて、東京には立派な国立競技場やサッカー場、
屋内プールなどの体育施設が造られたのでした。

「アジアで最初にオリンピックを開催するとなれば、東京しかないでしょう。
オリンピックを開催するとなれば
200億円からの巨費を投じなければなりませんが、
そのために産業道路は整備され、
施設もさらに充実するでしょう。
鉄道ももっとよくなる。
高速道路の整備によって自動車産業などの発展も期待できます。
経済基盤、社会基盤を強化するチャンス。
敗戦から完全復興を遂げた日本を世界にアピールするチャンスなんです。
なんとしても東京にオリンピックを誘致したい」

田畑会長は勇に熱く語りかけました。
「日本のためならよろこんで、力を貸しましょう」
勇が答えると、田畑会長は
「和田さん、ありがとう。恩に着ます」
と強く勇の手を握りしめました。
勇が東京オリンピック準備委員会会長の岸信介首相から、
日系アメリカ人でただ一人委員を委嘱されたのは、
それから間もなくのことでした。