◆2004-05・第1回「和田勇物語」感想文最優秀賞表彰式 |
◆和田勇物語感想文最優秀賞発表中学校の部・最優秀賞 自分の財産まで使ったんだと思いました。 普通の人なら、手紙で頼まれて、 その場でやってやろうと思わないと思います。 自分のためっていうのよりも、戦争に負けて、 おちこんでいる日本人や日系人のためにやったと思いました。 多くの人々が、希望をもったと思いました。 和田勇さんは、日本の選手団が、 入場してきた時、本当にうれしかったと思います。 この時、日本が世界に認められました。 喜びに変えた人だと思います。 老人ホームを造るためにも自分の財産を使いました。 和田勇さんは、最後まで、日本人や日系人のために努力し、 そして、希望をあたえてくれたと思います。 大きな希望をたくさんの人々に 与えることができるんだと思いました。 これから、私も、和田勇さんのように、 大きな希望をみんなに与えることが できるような仕事につきたいと思いました。 「和田勇さんの人生をつらぬくもの」 座間裕子さん(大成中学校2年) 「“人間の一生”って、涙の一粒だと思う。 だから、その一粒を大事にして生きてほしい。」 この言葉は、和田勇さんの妻である和田正子さんの言葉です。 今はもうこの世にはいない和田勇さんを最後まで 「人生のパートナー」として歩いてきた正子さんであるからこそ、 この様な素晴らしい言葉が言えるのだと思います。 和田さんはアメリカで生まれ、 少年時代を紀州御坊日高で育った日系人です。 英語名「フレッド和田」、日本名「和田勇」として、 アメリカと日本を結んだ「絆」のような人です。 日本の敗戦後に行われた全米水泳選手権の日本選手達に 和田夫妻は、家を貸し、ご飯を作り、 本当の家族のように一緒に暮らしました。 それが力になったのか、日本は九つの世界記録を出し、 世界中に「富士山のトビウオ」と呼ばれる程、 有名になったのです。 私には、和田勇さんが とても人情の熱い男に思えるのです。 彼の優しさ、男らしい行動力、 人を想う気持ち・・・今の日本人には、 かけているものを彼はすべて持っているのです。 東京オリンピックの開催を手伝い、 和田さんが周囲の人々に頼られていることがよくわかりました。 その東京オリンピックも大成功をおさめて、 私は「本当にバラ色の人生だな。」と思っていましたが、 和田さんは、こんな風に語っています。 本当に悲しい出来事ばかりでした。 ですから私の人生は、 けっして恵まれたものではなかったのです。」 皆、人生には楽しいこともつらいこともある。 「今がつらくても未来派明るい。」ということを信じたいと思いました。 和田さんは二年前に九十三歳という歳でこの世からさりました。 その和田さんの最後の夢は 「困っている日系人に日本語で話し、 お味噌汁を食べさせてあげたい。」と言うものでした。 和田夫妻は、懸命に日系人のための老人ホームをつくり、 その夢も果たすことが出来ました。 「夢は叶えるためのもの」と、教えられた気がしました。 しかし、今ここに私を支えてくれた人がいる。 これからも二人で支えあって生きていきたい。」 そうして勇さんが正子さんの肩を組んだとき、 会場にいた皆さんは心からの拍手をおくりました。 私もその一粒を大事にして精一杯、 今を後悔しないように生きたいと思います。 「和田勇物語について」 柿木(かきのき) 彩(あや)さん(河南中学校3年) 私は、この物語の本やビデオを見る前までは、 この私達が住んでいる、御坊、日高のことを、何もなくて、田舎で、 自慢できるものがない所だと思っていました。 そして、和田勇さんのことも知りませんでした。 私の経験したことのない大きな出来事、 「戦争」が出てきて、 和田さんの人生に苦労をかけていました。 アメリカと日本を祖国とする和田さん。 そんな和田さんにとって、 自分の祖国どうしが傷つけ合い、 争っている姿を見ることは、 どれだけ悲しいことであったでしょうか。 しかし、どんなにつらいことがあっても、 和田さんはいつも前向きで、一生懸命生きていました。 そして、自分の事だけを考えるのではなく、 他人の事を考え、助けてあげていました。 現代の人々にはない、根気と、 優しさを持っていたのだと思います。 命をかけて、大きな仕事をやり遂げました。 「東京オリンピック」それは、 日本の運命を変えた、大きな大きな大会です。 日本はそのころ、他国から、信頼されておらず、 戦争後の復興におわれているところでした。 そんな日本に、信頼を取り戻し、 外交関係が密接になり、 経済の成長を遂げた根本となったのが、東京オリンピックです。 和田さんは日本を変えたのです。 この御坊、日高での生活が、 和田さんの日本への愛をはぐくみました。 この数年間の生活がなければ、 たとえ日本を祖国としていても、 自分の命をかけてまで、日本のために 大きな仕事をしようとは思わなかったでしょう。 一人の少年を育て、その少年は、御坊・日高に、 いえ日本に、大きな恩返しをしました。 そんな御坊・日高を、今私は、本当にほこらしく思います。 また、和田さんの生き方というものを見習って、 私も将来、一人の日本人として、 日本のための力になれるように、がんばりたいと思います。 しかし、和田勇という一粒の涙は、大粒の涙となって、 人々に希望をあたえ、日本の未来をきり開いてくれました。 もっといろんなことを学び、いつか大粒の涙となって、 この町に恩返ししようと思います。 「東京オリンピック開催への架け橋」 原 望さん(美山中学校1年) 和田勇さん。 この人は東京オリンピック開催にあたりとても重要な人物であり、 この人が居なければ東京オリンピック開催は、 夢のままで終わってしまっていたかもしれない、と言われている人でした。 しかし、何がそこまで凄かったのか分からず、 取り敢えずビデオを集中して見ました。 七人兄弟の長男だったために 口減らしとして両親と離れ、 和歌山県の祖父母に預けられたのでした。 当時まだ四歳だった和田さんは、 遠く離れたアメリカに住む両親が恋しくて 泣いてしまった事もあったそうです。 そこを見て私は、 こんなに小さい子供を出すなんて私には考えられないなぁ・・・ 私だったら駄々をこねてでも行こうとしないはず。」と感じました。 実際に、誰でも親と離れる事は嫌だと思いますし、 たえられないと思います。 けれど、そんな状況をたえしのんで生きて来た和田さんは、 本当に素晴らしい人なんだと、私はそう信じます。 例えそうでなくとも、苦しい生活を乗り越えてきたのですから、 人生の先輩として尊敬してしまうのではないでしょうか。 一九四一年(昭和十六年)の十二月、 日本軍がパールハーバーを攻撃し、 戦争が始まった事がきっかけでした。 戦火が勢いを増すにつれ、 日系人に対するアメリカ人の眼は 日に日に厳しいものになっていき、 ついにアメリカ政府は 日系人の強制収容を決めてしまいました。 そのために和田さんも 事業を続けることが困難になりました。 そんなある日、ユタ州で 農園労働者についての記事を見つけ、 農園の労働力不足を解決するためなら、 日系人の私たちでも力になれるのではないか。」 一九四ニ年三月下旬に一三〇人の賛同者を伴って ユタ州の農場に向かって出発したのでした。 嫌がらせを受けたりしながらも 休みなしにきつい労働に励みましたが、 結局赤字経営にたえきれず、一九四四年五月、 ついに農場から離れてしまったのでした。 それにしても、何故自分たちのために 支援してくれていた和田さんに 嫌がらせなどをしたのかが分かりませんでした。 食料などが不足すれば、 アメリカの戦況は不利になっていくはずなのに、 それ程まで日系人を良く思わなかったのかと思いました。 全米水泳選手権へ出場する日本人選手団に 宿泊場を提供してくれる人を探している、 という記事を見た和田さんは、 さっそく日本水泳選手団招致委員会の清水委員長に電話をかけ、 選手たちを受け入れる旨を申し出ました。 小学生低学年の部 佐野智奈津さん(名田小学校3年) 和田さんは、すごいですね。わたしも和田さんみたいになりたいです。 わたしは、和田さんのこの言葉がすきになりました。 和田さんは、日本のそうりだいじんになれるくらいわたしは、すごいと思います。 アメリカなどの人たちに「ジャップ」とバカにされてたのが 「ジャパニーズ」とみとめててもらったときうれしかったのかなあ。 わたしは、人びとに、みとめられるようになりたいです。 和田さんのおかげで思いだせました。 ありがとう。 「和田勇物語」を読んで 田嶋隼也君(湯川小学校4年) 「和田勇」という人の名前を知ったのは、 御坊駅前の電光けい示板からでした。 「和田勇さんって、何をした人なんだろう。」 そう思って、ぼくはこの本を読んで見ました。 ぼくのひいおじいちゃんやひいおばあちゃんの生まれたくらいの昔です。 そして、和田さんは、カナダのバンクーバーで生まれました。 日本人の両親なのに、カナダに生まれたのは、 両親がカナダに出稼ぎに出ていたからです。 和田さんの家はまずしくて、四才の時に、 名田のおじいちゃんの家へあずけられたほどでした。 たった四才なのに一人でがまんして五年間も名田でくらすなんて、 和田さんは本当にえらいと、思いました。 ぼくなら、一日もがまんできそうにないのに。 十二才で家を出て、一人でくらし始めました。 でも、和田さんは、 そして、前の苦労はきっといつか報われる。」と、信じ、前向きでした。 そして、どんな困難にも向かっていくファイターでした。 アジアで一番目にオリンピックが開かれた国。 そうなれたのも和田さんのおかげだね。」と、教えてくれました。 ぼくは、こんな人がぼくの住む町の出身だと知ってとてもうれしくなりました。 そして、いつも前向きな和田さんを見習わなければいけないと思いました。 自分のためのことではなくて、 みんなのためであったことがすばらしいです。 自分のためにがんばる人はたくさんいるけれど、 日本のためとか、日本人のためとか、 自分の知らないだれかのためにがんばる和田さんは立派です。 ぼくもそんなことができる人になりたいと思いますが、 とっても難しそうです。 でも、この和田さんの話を心に残しておいて、 困ったことや、つらいことにあったら、 あともう一歩進めるよう努力したいと思います。 そして、ぼくがだれかのためになるようなことがあったら、 勇気を出してやってみようと思いました。 御坊にゆかりのある和田勇さんの物語を読んで、 ぼくも何かやれそうな気持ちがしてきました。 そして、 みんなに教えてあげたくなりました。 「和田勇物語を学習して」 宮本彩恵さん(御坊小学校6年) 私は、この物語を学習して、和田勇さんの人生を知ったとき、 「日本とアメリカの二つの愛する祖国のために力を尽くしたい」と決意したことが 一番すごいことだと思いました。 日系人というだけで差別されたり、強制収容されたりする時代もありました。 そんな時代に育った和田さんがこのような思いを持てたのは、 少年時代を過ごした御坊を通して、 だれよりも日本のことが好きになっていたからなんだろうなと思いました。 いろいろな仕事を成功させたのも、 いつも前向きに努力する和田さんであったからこそできたのでしょう。 もちろん、東京でオリンピックが開かれたことも、 和田さんがいたから実現したことであって、 もし和田さんがいなかったら日本でオリンピックが開かれることもなく、 戦後の復興ももっと遅れていたかもしれません。 慣れないアメリカの土地で苦労を重ねた日系一世、二世のために 恩返しをしたいという思いを強く持ちます。 そして、彼らが日本人に囲まれて楽しく暮らせる場所を提供しようと、 日系人高齢者のための福祉施設の準備に取り組み続けます。 自分自身が日系人であることを誇りに思い、 全力を尽くして、高齢の日系人たちが気持ちよく余生を送れる環境を整えようと、 晩年まで精力的に働き続けました。 そして、自分自身のためではなくて、 他の人のために、自らをなげうって働き続ける姿に感動しました。 生涯、努力を惜しまなかった和田勇さん。 普通じゃできないことをやった人だったんだなと思いました。 ◆入賞者については、以下の通りです。 |
【 御坊小学校】 | |
最優秀賞 | 宮本彩恵さん(6年) |
優良賞 | 山澤香純さん(6年)・ 山ア光優さん(6年)・三浦健介君(6年)・ 佐野美波さん(6年)・小垣璃恵さん(6年)・蕨野愛佳さん(6年)・ 石川友梨子さん(6年) |
【湯川小学校】 | |
最優秀賞 | 田嶋隼也君(4年) |
優秀賞 | 最明由喜君(6年)・夏見尚実さん(6年)・織田悠花さん(6年) |
【野口小学校】 | |
優秀賞 | 橋爪勇人君(5年)・天川治香さん(5年)・中村真希さん(5年)・ 西アひとみさん(5年) |
【名田小学校】 | |
最優秀賞 | 佐野智奈津さん(3年) |
優秀賞 | 中西彩奈さん(3年)・浜中啓輔君(3年)・小山菜月さん(3年)・ 中野拓人君(3年) |
優良賞 | 芝田慶輔君(3年)・鈴木渓君(3年)・上山かな恵さん(3年)・ 中筋祐美さん(4年)・ 阪本佳穂さん(4年)・楠本健悟君(5年)・ 前田祐希さん(5年)・保田彩音さん(6年)・鈴木遼君(6年)・ 山野明里さん(6年) |
【藤田小学校】 | |
優秀賞 | 森川朋香さん(5年) ・福居詩歩子さん(5年)・橋尾篤君(5年)・ 岡田祐佳さん(2年)・ア山凛さん(3年)・植山翔平君(3年) |
優良賞 | 津村百香さん(2年)・小池鉱明君(2年)・田中菜央さん(2年)・ 上垣内大貴君(2年)・岩崎拓実君(3年)・山本康照君(3年)・ 阪本実紀さん(3年)・木寺彩乃さん(5年)・北崎優奈さん(5年)・ 山本沙也加さん(5年)・箱谷有香さん(5年)・中田貴也君(5年)・ 玉置真一朗君(5年)・天野辰哉君(5年)・山本由奈さん(6年)・ 中出真帆さん(6年)・北崎綾乃さん(6年) |
【塩屋小学校】 | |
優秀賞 | 津村杏奈さん(4年) ・寒川大輔君(6年) |
優良賞 | 山田千尋さん(4年)・前田えりかさん(4年)・原田祐里さん(4年)・ 浦越有未さん(4年) |
【衣奈小学校】 | |
優秀賞 | 橋本郁矢君(6年) |
優良賞 | 岸上美紀さん(6年)・山口裕明君(6年)・吉原圭亮君(6年)・ 中嶋諒平君(6年) |
【高津尾小学校】 | |
優秀賞 | 佐藤翔馬君(5年)・橋爪ありささん(6年) |
【江川小学校】 | |
優良賞 | 森裕貴君(5年)・花道一輝君(5年)・井口優君(5年)・ 平野咲穂さん(6年)・竹輪祥寛君(6年) |
【衣奈中学校】 | |
優秀賞 | 阿部智之君(2年)・松下博和君(2年)・硲間晴香さん(2年) |
優良賞 | 洲崎梓さん(2年) |
【松洋中学校】 | |
優秀賞 | 下田彩さん(2年)・松本彩花さん(2年) |
優良賞 | 出合寛也君(2年)・砂川大輔君 |
【大成中学校】 | |
最優秀賞 | 座間裕子さん(2年) |
優秀賞 | 玉置なつさん(1年)・伊奈愛美さん(2年)・鳥居愛瞳さん(2年)・ 中井保奈見さん(2年)・野尻千晶さん(2年)・大嶋美里さん(3年)・ 西本ちひろさん(3年)・本林和晃君(3年)・大川紗世子さん(3年)・ 長岡真梨奈さん(3年) |
優良賞 | 玉置裕代さん(1年)・玉置文康君(1年)・今福友紀君(1年)・ 塩路亜弥さん(1年)・瀬戸一喜君(1年)・西峯詩乃さん(1年)・ 芝智弘君(2年)・寺田成伸君(2年)・松本直也君(2年)・ 東岸正鉱君(2年)・中原彩華さん(2年)・熊本佳子さん(3年)・ 中村ゆりさん(3年)・田又渚さん(3年)・原静華さん(3年)・ 井上真奈美さん(3年)・今福亜由美さん(3年)・松本沙智可さん(3年)・ 直川裕子さん(3年)・伊藤晴花さん(3年) |
【白崎中学校】 | |
優秀賞 | 西尾一輝君(1年)・田端亜耶さん(3年) |
優良賞 | 阪口彩さん(1年)・三世志桜里さん(1年) |
【河南中学校】 | |
最優秀賞 | 柿木彩さん(3年) |
優秀賞 | 吾妻可奈子さん(3年)・森岡育子(3年)・黒祖小百合さん(3年)・ 大藪美和さん(3年)・川端大輝君(3年)・田端佑視君(3年)・ 城亜也佳さん(3年) |
優良賞 | 坂口真紀さん(3年)・大江佑太君(3年)・平田達哉君(3年)・ 岡本真輔君(3年)・隅澤杏介君(3年)・西岡彩香さん(3年)・ 石橋伸啓君(3年)・佐藤恵美さん(3年)・小竹健市君(3年)・ 上西勇輝君(3年)・村上カミーラさん(3年)・畑中安寿佐さん(3年) |
【稲原中学校】 | |
優秀賞 | 芝中絵未さん(2年) |
優良賞 | 小山志織さん(2年) |
【御坊中学校】 | |
優秀賞 | 上芝啓太君(3年)・北村梨紗さん(2年)・湯川紗世さん(2年) |
優良賞 | 野田真比等君(3年)・酒井和美さん(3年)・中村勇太君(2年)・ 宮路知沙さん(2年)・細川翔矢君(2年)・釜中優次君(2年) |
【名田中学校】 | |
最優秀賞 | 立瀬永佳さん(3年) |
優秀賞 | 山田沙季さん(3年)・堀井郁実さん(3年)・鈴木俊哉君(3年)・ 西端祐衣さん(2年) |
優良賞 | 宮下由希さん(3年)・磯合真澄さん(3年)・屋式一輝君(3年)・ 関本大君(3年)・芝章人君(3年)・片山真志君(3年)・ 村瀬本弥君(2年)・仮家伶奈さん(1年) |
【船着中学校】 | |
優良賞 | 山本彩加さん(3年)・細尾絵理奈さん(2年) |
【南部中学校】 | |
優秀賞 | 松田義隆君(3年)・野上優子さん(3年)・湯川小百合さん(3年) |
優良賞 | 山崎彩加さん(3年)・吉岡佳恵さん(3年)・玉井亜侑美さん(3年) |
【美山中学校】 | |
最優秀賞 | 原望さん(1年) |
優秀賞 | 奥村美優さん(2年) |
【湯川中学校】 | |
優秀賞 | 笠谷亮太君(1年)・川上祐生さん(1年)・齊志帆さん(2年)・ 酒井秀明君(2年)・幡川千紗さん(2年)・西川まりえさん(2年)・ 田島幸治君(2年)・坂本寿里也君(2年)・尾嶋美香さん(3年)・ 中島咲子さん(3年)・中村泉さん(3年) |
優良賞 | 佐竹しおりさん(1年)・小早川楓さん(1年)・中川早君(1年)・ 田中翔也君(2年)・阪本菜奈さん(2年)・小川真人君(2年)・ 古田江莉奈さん(2年)・田口ナツミさん(3年)・伊藤有紗さん(3年)・ 藪麻子さん(3年)・古田拓也君(3年)・梅本和希君(3年) |